Appoggio vol.17 2009 winter

500万人のマーケットの中でカラーユニバーサルデザインはすでにはじまっている
1955年、徳島県生まれ。早稲田大学在学中にITの開く未来に目覚め中退。アップル販売会社やIT 系ベンチャー企業の役員を経て、1998年より色覚バリアフリー活動を開始。
2004年、特定非営利活動法人カラーユニバーサルデザイン機構の設立に参画し、副理事長に。2007年、東商カラーコーディネーター1級取得。自身もP型強度の色弱者。
NPO 法人カラーユニバーサルデザイン機構
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伊賀公一さん CUDO/ 視覚情報デザインコンサルタント
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社会の色彩環境の中で着々と浸透しているCUD化とは何か。CUD化する市場は、リスクマネジメントだけ
でなく差別されない不便でない社会構築を目指すNPOの活動取材から学んだことは大きい。
――カラーユニバーサルデザイン機構(略称CUDO・クドー)では、世の中の色づかいを多様な色覚を持つ人も含めてすべての人に使いやすいものに改善していこうという活動をされていますね。どのような経緯で設立されたのですか。
伊賀 2004年10月に東京都の認証を得てNPO法人として設立しました。活動にはもっと長い流れがありますが、団体としてスタートしたのはそこからです。科学者、デザイナー、色弱の人の団体の世話人、いろんな人が関わっています。それぞれ昔から独自の活動をしていた人たちがまとまって一つの団体をつくろうということになってCUDOができました。
――共通の問題認識をベースに、一緒に活動していこうということですね。
伊賀 要は、世の中の何が問題か。色弱の人は黙っていれば外見上はわかりません。自分が色弱であることを隠していることが多いわけです。それは差別があるから。理解もされていない。色の見え方というのは、すごく説明しにくいのです。痛いってどういう意味? 熱い、甘いというのはどういうことか説明できますか?
――難しいですね。
伊賀 痛く感じる、熱く感じる、甘く感じる。それと同じで 黄色く感じる ということがどういうことか、人に説明するのは難しい。色の見え方が違うのがどうしてわかるかというと、ある色とある色が同じように見える人がいる、でもある人は違うと言うからです。AさんとBさんの顔が似ているというとき、目の形がどう、色がどうと説明できますが、色はその一番の要素そのものだから、たとえば「水色とピンク色がすごく似通って見える」という以外に説明のしようがない。それは何色に見えているのかと聞かれても答えられません。一般の人も同じです。その差異をお互いに確認することがすごく難しい。だから、「痛い」と「痛くない」を信号に使うことはないでしょう。だけど、色で表現することは世の中に多い。色については「みんなが同じように見えている」という前提があるからです。特に90年頃から不便に感じることが多くなってきました。
――それはどうして?
伊賀 その頃からカラープリンターが普及して、世の中がやたらと色を使うようになりました。それ以前は個人のデスクからカラーの印刷物を出すことはまずなかった。情報伝達は白黒だったんです。白黒の社会では、色の見え方の違いはさほど問題にはならなかった。ところが、90年代後半にインクジェットのカラープリンターがすごく安くなって、2000年には1万円程度。そうなると頻繁に色を使うようになる。同時に、技術の発達でATMをはじめ機器類にもどんどんカラー液晶が使われるようになった。教科書もいまやフルカラー。世の中のカラー化はすごく進んできています。単にきれいだという装飾性と情報伝達とをごっちゃにしているんですよ。たとえば、このボイスレコーダー、録音中を表示するランプが点いているはずですが、色合いによっては私たちには見えづらいものもある。ちょっとこのメガネをかけてみてください。
――本当だ。ランプが点いているかどうかわかりませんね。
伊賀 ところが、こちらのデジカメはどうですか? 赤以外の色のランプも使っているはずですが、ちゃんと色の区別がわかる。そのままこっちを見てください。
――はっきり点灯して見えます。こっちは黄色だし、色の違いもわかります。これがカラーユニバーサルデザイン(CUD)を意識した製品との違いなのですね。
伊賀 情報を伝えるとき、文字で伝えたり、記号で伝えたり、音で伝えたり、いろんな伝え方がある。色で伝えるという手段が新たに増えたんですよ。色の伝え方についてはルールもないまま、いつからか色が使われるようになって、どんどん使われるようになってしまった。私たちにはそれがすごく問題なのです。
――便利と思って色で情報伝達しようとして、逆に不便になってしまう人たちがいることに、社会が気づいていないのですね。
伊賀 高度情報化社会では、できるだけ短い時間で大量の情報を正確に伝えることが必要。一般の人にとって一目でわかるから色が都合がいいということで多用するようになった。背景には、色を使うコストがすごく安くなったこと、技術の発展によってカラー液晶ディスプレイができたり、発光ダイオードの色がいろんな色が使えるようになったこと、そんなことも関係しています。たとえば、昔の製品だと充電中はランプがついて充電が終わるとそれが消えるとか、別のランプがつくとかだったのに、色が変わるというものが出てきた。このメガネ、何だと思います?
――さきほどの体験メガネとは違うのですか?
伊賀 逆なんです。私がこれをかけると、一般の人と同じように見えます。私の場合、赤と緑がわかりにくいので、赤を明るくして緑を暗くする機能を持たせています。まだ開発中ですが。
――私が体験メガネをかけていると世の中の色がまったく違って見えますが、メガネをかけることによって、お互いに違う世界を体験できるということですね。
伊賀 これは昔の色覚検査表ですが、私がこれをかけると見える。はずすと見えない。あなたが体験メガネをかけると見えない、はずすと見える。逆転する。双方向翻訳機です。お互いに見ている世界を理解し合うことなんですよ。自分たちが見えているものだけが正しくて、他が間違っているとか、そういうことではなくて、実はいろんなものの感じ方、見方があるんだよっていうこと。血液型や背の高さや、お酒を飲める・飲めないと同じ特性なんです。身長が平均値よりも低くても異常とは言いません。異常・正常といういい方はおかしい。まず、私たちのような色の感じ方が違う人が世の中にはかなりの数、いるのだと知ってほしいですね。
――資料によると、色の見え方が一般の人と異なる人が日本に500万人以上いるとありますが。
伊賀 「先天的色弱者」といわれる人が、日本では男性の5%、20人に1人と言われています。病気や事故、加齢など後天的な原因で見え方が違ってくる人もいますから、500万人はいるでしょう。
――500万人というと、マーケットとして無視できない存在ですね。CUDマークがついた製品が増えていますが、企業もそのことに気づいてきたということでしょうか。企業のニーズについてどう考えておられますか。
伊賀 カラーユニバーサルデザインがなされていないもの、非CUDとでもいいますか、そんなものを作っていいのかということです。5%の人が買ってしまったらどうするのか、考えてみてください。
――返品するとか、買う前に確認するとか。
伊賀 色弱だと言いたくないので返品はしません。買う前に確認なんて不可能です。例えばデジカメの充電器。お店で充電中の状態を見せてくださいといっても、そんな準備はできていない。大丈夫だろうと思って買って帰ってがっかりするんです。泣き寝入り、我慢する。そんなものを作っていていいと思いますか? メーカーが知らないから、そんな状況が起きてしまう。知れば、使えるようにしてあげたいと思うはず。誰も意地悪で物を作っている人はいません。みんな良心的でいいものを作りたいと思っている。その思いが伝わるようにしたい。
――企業の思いを伝えるのがCUDマークというわけですね。
伊賀 マークを付けるのはメーカーです。CUDOは許諾しているだけ。メーカーが自主的にCUDをアピールしたいから付ける。そのためにメーカーは膨大な数のポイントをチェックして修正するのです。
――メーカーも積極的に取り組んでいるのですね。
伊賀 メーカーはより多くのお客様に使ってほしいわけですから、CUD化で市場が拡大します。もう一つ、リスクマネジメントという面もあります。さきほど私たちが不便でも我慢すると言いましたが、公共性のあるものについては、お互いに問題が起きる可能性があるんです。信号機が昔のように緑グリーンだったら、色弱者は見分けられずに突っ込んでしまう。いまは青緑に変わりました。危ないから変わったんです。
――CUDに対する企業ニーズとしてはまず市場拡大、次に社会にとって共通の安全性ということですね。他にもありますか。
伊賀 CUD化するということは、これまで見逃していた色々なことが整理できるんです。自分勝手に色をつけていた製品について、初めて第三者の意見を聞くことができる。文字の間違いを見つけることもあります。使いやすさなど、感じたことはお話しますから、色弱でない人も含めて、誰にとっても使いやすいものができていくわけです。最後にもう一つ、社会正義ですね。会社として、多くの人にやさしい社会をつくっていくのだと宣言することで、社会的ステータスが上がります。社会正義を追求すると収益性と相反することが多いのですが、CUDは色づかいを検討して色を変えるだけだからほとんどお金がかからない。本来ユニバーサルデザインというのは、最初からそういう人に配慮してデザインすることです。最初から配慮して考えられるデザイナーがいればいいことです。コストは変わらない、社会貢献もできるし社会正義もマーケティングもうまくいく、色弱の人も喜ぶ。逆にやっていないところがマイナスですね。
――これまで順調に活動を広げてこられていますが、今後の展開について、どのような目標をお持ちですか。
伊賀 色弱の人が差別されない社会をつくりたい。そのために色弱の人が不便でない社会にしたい。色づかいが色弱の人にとっても不便でない社会構築が目標なわけです。それが実現できれば差別されなくなる。差別されることが先にあるのではなく同時なんです。
――社会のCUD化に向けて具体的にどんな活動を考えておられますか。
伊賀 まず分かる人を作ることです。学校教育、特に美大やデザイン学校等での活動が大事なので、来年は学校とのコラボレーションを予定しています。学校以外にもメーカーや様々なところとコラボレーションしていくつもりです。CUDO単独ではなく、外部と一緒にやっていきたい。検証についても、メーカーが社内でチェックできる仕組みづくりをしていきたい。ある会社では社内に色弱の人を抱えて、チェックできる体制をつくっています。既に作ってしまったものをチェックするのではなく、これから作るものを企画段階でCUD化していけば、CUDOと同じことができます。CUDOは社内の検証をしている人たちと連絡を密にしながら、一緒に仕組みづくりに取り組みたいと思います。
――教育とコラボレーションを利用した仕組みづくりですね。
伊賀 CUDOがCUDとはどういうことか、どうしなければいけないかをきちんと人に伝えていく。これまでに1万人、2万人に話をしましたが、ちゃんとわかったか認定したり、ワークショップを開くことも考えています。セミナーも、今はCUDの話だけが多いですが、基礎色彩学や製品開発秘話みたいなものを入れて、学界、産業界を巻き込みたい。
――一般の人にも広まりそうですね。生活に関わりが深いという点ではホームページのCUD化はいかがでしょう?
伊賀 ホームページはどんどん更新していくので完成形がありません。CUDマークを付けるとしたら、その内容まで保証しないといけないので、現在はまだ少数です。ちゃんとした仕組みづくりができていて、問題があったら直すという約束をもらって、そういうルールで運営していますよという表示になるんです。本当はそうした運用上のマニュアルを持って製品づくりができていれば、印刷物にも使えるんです。ISOみたいな品質管理・品質保証の仕組みづくりです。早くそこに到達したい。ある会社では、ビルを建てるとき電気設備関係など全部CUD化した物を調達するという条件を設けています。エレベーターをはじめ、ほとんどの製品にCUD化したものがありまからね。
――そこまで進んでいるのですか。意識していないと気がつかないですね。
伊賀 一般の人はCUD化された商品に気づかないですよ。我々にとっては、使えなかったものが使えるようになってすごく便利になっているのですが。共存しているというのは、まさにこういうことです。CUD化で使いにくくはなっていないでしょう。ちょっとデザインを変えて、みんなが使いやすくなる。その背景に僕らが全部チェックしているという活動があるのです。
――CUDOの活動で、社会の色彩環境は着々と変わりつつあるのですね。これからの高齢化社会、高齢者も 色・弱者 の1グループだと思います。まさに人ごとではない、私たちも一緒に考えたいと思います。ありがとうございました。
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インタビュアー 田川えり子
フリーライター・リポーター・インタビュアー
大学卒業後、メーカー勤務を経て、1987年ブラックマンデーのその日からFP会社の事務に従事し始めたことが縁でFP業界の世界に入る。
現在はFP会社での経験を活かし、フリーランスの立場でFPセミナーの企画やセミナーリポート、インタビューなどに携わっている。マネーとキャリアという視点と、人と人との関りを大切にする心をベースに、役立つ情報を提供していきたいと考えている。AFP・キャリアディベロップメントアドバイザー。
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データで見る不動産投資最新事情 PART2
機関投資家の新規投資意欲は回復基調に
景気は底入れしたとは言われるものの、政府からデフレ宣言が飛び出しているように、不景気風がやまない状況である。つい最近も大手マンションデベロッパーが会社更生法を申請するなど、不動産業界をとりまく環境は相変わらず良くないようだ。
そんな最中(平成21年10月1日)に、財団法人不動産研究所が不動産投資家調査を行った。年金基金、生命保険、デベロッパー、アセットマネージャーなど218社に対して投資スタンスや今後の賃料見通しなどに関してアンケートをとり、その結果が公表された。今回はその結果を基に、不動産投資の最新事情を見ていきたい。
60%が新規投資意欲をもつ
アンケートの回答者の属性を表したのが図表1である。これによると不動産ファンドなどの運用に携わっているアセット・マネージャーが4割程度を占めており、デベロッパーと合計すると過半以上となっている。不動産投資のコア層が回答者になっているので、機関投資家の実態を色濃く反映していると判断できる。
次に過去半年間の投資結果を表したものが図表2である。売却が58%、購入が51%と売却が購入を上回っており、売却意欲が依然として高いことがうかがえる。購入者が何に投資したのかを表したのが図表3である。機関投資家なので、オフィスビルが多いのは当然だが、単身者向け賃貸住宅がAクラスオフィスビルと同じ数字の48%と最多を占めているのが興味深い。
また、今後の不動産投資スタンスを表しているのが図表4である。不動産への新規投資意欲は、2007年10月をピークにその後連続して下落し、前回45%にまで減少していたが、今回は60%へと回復した。一方、新規投資を控える投資家は、前回50%に達したが、今回は31%へ減少し、新規投資意欲は回復基調にある。一方、投資したい物件の種類を表したのが図表5である。図表3と比較すると、オフィスビル、ファミリー向け賃貸住宅と都心型専門店ビルへの投資比率が著しく高くなっているのが目立つ。
賃貸住宅への期待利回りは
6・0%以上
個人投資家の主たる投資対象となる賃貸住宅に関する期待利回りを表したのが図表6である。 Aは東京都区内の期待利回り(注1)と取引利回り(注2)を表している。それによると、投資家の期待利回りは都内城南地区は6・0%以上で、城東地区は6・3%以上となっている。
不動産研究所によると、投資対象不動産の利回りは、前々回、前回と大幅な上昇傾向を示していたが、今回はほとんどの用途・地域において上昇幅が縮小し、特に東京都内の賃貸住宅ではほぼ横ばいとなったという。
またBは東京以外の政令指定都市の各地区による期待利回りを示している。札幌のファミリー向けが8・0%と最も高く、横浜地区の6・8%が最も低い。言うまでもないことだが、期待利回りが高いほど物件価格は低くなる、逆に期待利回りが低いほど、物件価格は高くなる。
不動産研究所によると、政令指定都市の各地区における賃貸住宅一棟の期待利回りは、ワンルームマンションが0・0%〜0・3%の上昇、ファミリー向けマンションも0・1〜0・3%の上昇で、前回調査から上昇幅は縮小した。
ビジネスホテルへの期待利回りは
6・3%以上
図表7は一部の個人投資家にも関心の高いビジネスホテルへの期待利回りを表している。各地区とも上昇しており、上昇幅は0・2%〜0・5%となった。ホテルへの投資は賃貸住宅への投資よりも慎重であることがうかがえる。
(編集室)
(注1)期待利回り…投資価値の判断(計算)に使われる還元利回りを指す。通常は初年度の(注3)純収益(NOI)を期待利回りで割ったものが投資価値になる。
(注2)取引利回り…市場での還元利回り、単年度の純収益(NOI)を市場価格で割ったものを指す。
※期待利回りは「各投資家が期待する採算性に基づく利回り」、取引利回りは「投資家が実際の市場を観察して想定する利回り」である。
(注3)純収益…減価償却前、税引き前の純収益(Net Operating Income、通称NOI)を指す。不動産より得られる有効総収入から総費用を控除したものである(大規模改修のための資本的支出は含まない。ただし、経常的な修繕費は維持費に含めている)。
※図表の出典はすべて財団法人不動産研究所による。

セカンドライフの終着は・・・老い支度。そして、葬儀
本誌編集長 江里口吉雄
映画「おくりびと」の話題から1年。セカンドライフの生き方が問われていく中で、静かに老い支度をする人が増えてきている。
老い支度としてのラストシーンが葬儀だ。人の死のあとには、死者を弔う儀式が有史から始まっている。日本の歴史においても縄文時代の前の旧石器時代にはいわゆる死者を土葬にして儀式を行ったと考古学上されている。その後の弥生時代にも死者の葬法の主流は土葬であったようだ。死者の意識的な葬法は、土葬・火葬・水葬・林葬(風葬)の四葬となっているが、インドやネパール・チベットでは林葬のひとつとして鳥葬もある。 その後の古墳時代においても土葬が主体であったようだ。ところが7世紀にはいると火葬が出て普及してきた。中世においては土葬と火葬が共存していた時代ともいえる。この火葬の始源は古代インドが発祥とされていて仏教とともに中国そして朝鮮から日本に伝わったとされている。火葬はいわば仏教思想によるものとされている。
日本における宗教としては神道がまずあるが、神道は大和朝廷時代の古事記や日本書紀での神話からはじまっている。神道がはたして宗教であるのかどうかは議論があるようだが、神道の成立と日本の民族文化の成立とが実は一体であるようでもあり神道は宗教でないようにも思える。日本人の文化思想の根源はこの神道とともに歴史の上で歩んできたといっても過言ではなく、それはひとつの生活習慣のような気もする。もちろん、仏教も日本人の精神世界には自然と一体化されてきたので、いわゆる「神様仏様・・・」となるわけだ。
「神道」という言葉は「日本書紀」にはじめて記されている。同じく大化の改心のときに「仏法」というように記されている。神道と仏法(仏教)はお互いに対語でもあるわけだ。外来の宗教文化である「仏法」に対してはじめて「神道」の名を使ったというのが歴史的な事情のようだ。神道は日本の国土において自然発生的に生まれ育った信仰で、いわゆる教祖を中心する宗教ではない。そして、神道は日本の歴史の中では神仏習合として聖徳太子の時代から江戸名を使ったというのが歴史的な事情のようだ。神道は日本の国土において自然発生的に生まれ育った信仰で、いわゆる神仏分離として国家神道となり、さらに戦後の連合国占領軍によってなされた宗教政策による変遷となる。
さて、映画「おくりびと」で日本中の人々が死と出会うことをあらためて知った葬儀。その葬儀の大半が仏式であるように、既存宗教の最大勢力である仏教は、いわる寺院仏教として日本中の葬儀の中心をなしている。現代の日本における既存仏教は大きくわけて5つの宗派がある。その宗派には檀家制度があり、江戸幕府の宗教統制としてこの檀家制度をもって人々を寺院に帰属させてきたが、その弊害として多くの寺院は、檀家の先祖供養として寺の経営に走り、仏教信仰は習俗化されて形骸化してしまった。
この5大宗派は、@浄土宗(開祖 法然)A真宗(開祖 親鸞)B臨済宗(開祖 栄西)C曹洞宗(開祖 道元)D日蓮宗(開祖 日蓮)がある。この5大宗以外にも真言宗・天台宗・時宗・密教等がある。この5大宗派はいずれも鎌倉時代の宗教であって、日本の宗教革命の時代でもあったのだ。現在の日本における葬儀の93%が仏教で、4%が神道、そして1%がキリスト教と言われている。仏教における葬儀の意味は、古来インドにおける釈尊(ブッタ)が手本となる。いわゆる涅槃というニルバーナーの世界へ旅たつ儀式でもあったわけだ。涅槃とは、仏教の世界でいう輪廻をしないで苦からの完全な解脱をいう。
葬儀におけるいくつかの習慣を仏教的に解説すると、まず死者に対する最後のはなむけとして死者の口に捧げる水を「末期の水」「死水」という。田舎では、湯呑み水をたたえて樒の葉を一枚浮かべてその葉を盛って死者の口を潤す。都会では新品の箸か脱脂綿に水を含ませて死者の唇をうるおすことが行われる。この「死水」を行う順序は死者の血のつながりの濃い順番となる。この「死水」は習俗的には死者の魂を呼び止めて蘇生させようとする呪術的儀礼でもあるのだ。次に「湯灌」と「経帷子」だが、ご遺体をお棺に納める前に湯水で拭くことを湯灌という。経帷子は明衣浄衣とも呼ばれ、死者とゆかりのある女性が縫ったものだ。現在は、死者が生前好んでいた着物を左前に着せる。遺体の安置は、納棺の時まで遺体を暖めないように敷布団に寝かせて顔を西に向け北枕で寝かせる。この習慣は「頭北面西」といって釈尊の涅槃像が由来されている。また布団の上には「守り刀」を置くが、これは武士の死者にはその枕元に刀を置いたもので、鎮魂ともいわれている。そして、「逆さ屏風」といって、死者の枕元屏風を逆さにたてる習俗は死者を悪霊から守ろうとするためだ。また、「枕飾り」といって、線香立・燭台・花立の三具足を小さい机の上に供える。線香とロウソクの火は絶やさないようにする。これは燭台の光は、仏の光明を意味していて三途の川を渡り極楽へ行く道を明るく照らすものとしている。また、線香の煙は、仏の食物を意味しているとされている。そのほかに「枕団子」や「枕飯」を供える。そして葬儀は、@神棚に白い紙を貼るA忌中札を貼るB枕経と通夜とすすむ。通夜は、本来は葬儀の前の晩から夜を徹して読経して全通夜としたが、現在は1時間程度の読経で弔問の方の焼香となっている。これがいわゆる「お通や」というものだ。
葬儀式は場所によって、@寺院や斎場での葬儀を「堂内式」A火葬場や墓地での葬儀を「三昧式」B死者の自宅での葬儀を「自宅葬」に分けられる。現在の都会における葬儀は、マンション等の住宅事情や町内会等の近隣社会の消滅もあり葬儀の大半が@「堂内式」になった。葬儀が終わると棺を閉じ、出棺の前に近親者が最後の別れとして花で棺を埋める。棺の蓋は丸い石で釘を打つが、この石には超自然的な呪術的な力が宿ると信じられている。この習俗は石の持つ呪術によって悪霊を押さえるものとされている。さていよいよ出棺となるのだが、小銭や菓子などを子供たちに投げる習俗がある。これは仏教でいうところの「餓鬼」に「布施」するものだ。棺を出すときには、玄関口から出してはならず、棺を担ぐ人は縁側や茶の間から土足で運びだす。最後に死者を荼毘に付したあとに、収骨として箸で二人ずつ骨壷や骨箱にいれる。この習俗は、死者を「はしわたし」として三途の川へ「橋渡し」をしてあげるものだ。そして、忌明けとなるが、いわゆる四十九日といって古来インドでは人間は「輪廻転生」するものと信じられていて、生を終えてから次の生をうけるまでの時間が四十九日とされている。忌明けによって納骨となる。これで日常生活への復帰となる。
この一連の葬儀の内容を知る伝統は現代では完全に壊滅されてしまい、ただ葬儀屋がたんたんと形式的に物理的にこなしているだけのように見える。筆者は、明治生まれの親の環境でこういった葬儀の習慣をそれとなく伝授されてきた一人であるが、残念ながら、ほとんどの方がその意味も知らないまま葬儀を終えてしまっているように見えるのは少し残念でもある。(合掌)